飛ばずにイスタンブール!アジアの終わり
日本を出て8ヶ月、ついにイスタンブール。アジアの終わりだー。長かったアジアにもサヨナラ。イスタンブールへの長距離バスはボスポラス海峡を渡ったヨーロッパ側に到着するのだがアジアの終わりに浸るためにアジア側でバスを降り、ボスポラス海峡は船で渡る。ゆっくりと近づいてくるヨーロッパ大陸を眺めながら日本から韓国に渡ったときのことを思い出していた。そういえば韓国へ渡ったときも雨だった。
イスタンブール。なんと趣のある名前だろう。ビザンツ帝国の首都ビザンティウム、オスマントルコの首都コンスタンチノープルの時代から反映している歴史のある街。しかしながら新市街は、とうていイスラムの国とは思えないほど先進国のような光景が広がっている。特に女性の格好が他の町とはぜんぜん違う。みんなジェニファーロペスみたいだ。
寒さが厳しいなかこのままブルガリアを経てヨーロッパを横断にかかります。
トルコのカッパドキアへ
いろいろいやな思いもしたイランを抜けトルコへ。振り返って見ると結構いい人、親切な人にも会えた。でもラマダンのイランはもう2度と来たくない。
トルコとイランの国境は雪も積もる厳寒の地。トルコに入って最初の大きな町エルズルムは寒さで有名らしく、マイナス40度!にもなることもあるという。うわさどおり昼でも氷点下のこともあるくらい寒い寒い寒い。。
それにしても、イランを走っている時の車窓は砂漠一筋だったのに、トルコに入ったとたんいわゆる東欧と南欧に中央アジアをミックスしたような長閑な光景が目に入る。ベレー帽をかぶった鼻髭の濃いおじさんがヤギなんかを放牧してたりしてなんか雰囲気がでてる。イランよりトルコの方が経済的にははるかに先を行っているのだろうけど、道路や建物の造りはイランの方が近代的なのも面白い。石油が出るけど砂漠しかないイラン。緑はあるけど石油の出ないトルコの差なのか。。
しかし!トルコは飯がうまい!今まで実感したことなかったけどさすが世界3大料理だ。ネパールからパキスタンまでのカレー攻め。イランでの淡白な肉料理に比べトルコ料理はやっぱりヨーロッパの味がするけど、微妙にエスニックでそれが堪らない。パンも非常においしいのでスープとパンだけでも相当満足。炭火の串焼きなんか涙が出るほどうまかった。。マクドナルドも近い!!
まずはトルコ最大の観光地カパドキアへ。ここは、奇岩が沢山ニョキニョキとしていて摩訶不思議な幻想世界、と言えば聞こえがいいし、ただ単に岩があるだけと言えばそれまでのところ。確かにキノコの形をした岩々や近年まで人が住んでいたという地下洞窟などなかなか面白いのだが、いかんせん観光地。すべてが観光地化されているのがあまり面白くない。やっぱりこう、トルコに着たからには、ハマム(トルコ風呂)に入って旧市街を散歩できるようなところが。。。いいなぁ。日程を繰り上げてサフランボルというところへ急ごうかと。
でもでもでも、ここに来て新たな問題が。。それが物価の壁。西に進むにつれ物価が高くなるー。まだ東の方ではイランよりちょっと高いくらいだが、観光地のカッパドキアをはじめ、アンから、インスタンブールと価格もヨーロッパ標準になっていく。。これからポルトガルまで、物価との戦いが始まる。
やっとラマダンの明けたイラン 2003.11.26
ラマダン明けは11月23日とガイドに書いてあったのでてっきりその通りだと思っていたのだが実は今年のラマダン明けは25日。今日からやっと昼間でも外で食事ができるようになった。つらいつらいラマダン中のイスラム圏旅行。。それでもイランはパキスタンよりは大分マシ。イランの方が厳格だと思っていたのだが、内緒で営業している店もあるし、みんな隠れてタバコを吸っているし、バスターミナルやなんかの食堂は開いていた。パキスタンでは水も買えないときもあったのに。ラマダンは月の満ち欠けで期間が決まるらしいので、実際何日までという決まりはないらしい。イスラム教のえらい人が毎晩月を眺めて、新月が確認できたとみなせば次の日からラマダン終了となるらしい。
それにしてもイランの印象は悪い。何がってタクシー強盗や盗難などの治安の悪さももちろんだけど、道を歩いていると後ろから自転車やバイクに乗った輩にたたかれたり、耳元で大声で叫ばれたり、指をさして笑われたり・・・とにかく街中をあるいていると小学生がやるようないたずらというかバカにするようなしぐさが5分に一回。明らかに珍しがっているというよりバカにしているのだ。これには結構まいる。いちいちむかついていてもしょうがないし、夜道独りだったら怖いので、無視するしかないのだがイランを旅しているアジア人はだいたいこれでむかついている。もちろん全員がそうなわけなくて、いい人もいるけれど、圧倒的にバカにされるほうが多い。白人に対するコンプレックスの裏返しなのだろうけれど。。イランの旅はなかなかつらい。
とは言え、悪いことばかりなわけではない。イランの古都エスファハーンは、以前世界の半分、といわれた美しい町。シルクロードを通ってきたキャラバン隊の中継地として何百年にも渡って栄えてきた町。観光の中心エマーム広場の周りのモスクは見ているだけでため息が出るほど美しい。残念なのは、ラマダン中ということでチャイハーネ(茶屋)が昼間営業していないこと。エマーム広場を眺めながらチャイハーネでのんびりお茶をするのが本当の楽しみかたなのに。寒くなってきたイランはテヘラン経由で早々と抜けトルコ、そしてヨーロッパへ向かおうと思う。
クエッタからイランへ入国 2003.11.20
ラマダン明けまであと4日・・断食しながらの旅は思ったよりつらい。大都市なら食堂は閉まっていても商店などはやっているところが多いのだけれど、ちょっと小さな町に行くと水すら買えなかったり。ここ2週間ほど恒常的に腹がすいている状態。そのラマダンもあと4日で終わり。楽しみで仕方がない。
クエッタはパキスタンの北西部、アフガニスタンとの国境もすぐ側のところだ。アメリカ軍によるタリバン政権との戦争の時はここクエッタもよくテレビなどで映っていたので知っている人も多いはず。標高1600メートルとチベット以来の標高1000メートル以上なのだが、寒くてかなわない。明け方は気温がマイナス10度くらいにもなる。インドから以降は夏がぶり返していたのでここでまた冬に季節が戻ったことになる。クエッタはアフガンに近いだけあってパキスタンの中でも雰囲気がちょっと他と違う。最初の印象はやはり中央アジアの匂い、というところか。人々の顔つきがなんとも中央アジアなのだ。パキスタンの移動の主役ギラギラバスもここクエッタまで来ると一層派手になる。
寒いクエッタは特に見るべきものも少ないので早々とイランへと入国。クエッタからは氷点下の中をひた走る暖房の効かないバスで14時間で国境の町タフタンへ。イランとパキスタンの国境周辺は本当に岩山と砂漠しかない。バスのない時代にここを馬やラクダで隊商を組んで走るのはさぞつらかったに違いない。オアシス、という言葉の響きが彼らには全く異なってに聞こえたに違いない。イランに入っても砂漠は延々と続く、クエッタをでて24時間。ようやく砂漠の中のオアシス、バムに到着。今朝までの氷点下はどこ吹く風、バムは30度を越える暑さだった。
パキスタン@ラマダン中 2003.11.12
パキスタンのラホールへ。幸か不幸かイスラム暦では10月後半から11月後半まではラマダンにあたる。つまり断食の月だ。パキスタン以西はイスラム諸国ということで、こちらも断食月間突入中。最初はどうせ暗くなれば食べれるんだから・・と高をくくっていたが、結構つらい。基本旅行者は外食をするので外で自由に飯が食えないのは意外と大変だ。。。もちろん何か買ってきて宿で食べればいいのだけれど、それがなかなか難しい。アジアとは言ってももうそこらじゅうにカップラーメンが売っているような場所ではない。トルコまでなんとかラマダンを乗り切れば。。。
インドから国境を越えてパキスタンに入ってきた訳だが、パキスタンへ入っての最初の印象は。。。男女分かれて、だった。国境からラホールまでのローカルバスに乗るときも、バスの入り口が二つあって、中には牢獄のような仕切りがある。最初はVIPクラス??とか階級社会的インド人発想をしてしまったのだが走り始めて納得。男女別々にするためのものだったのだ。バスだけではない、たとえばトゥクトゥクのような乗り物でもイスが前と後ろに背向かいについていて、前は女性、後ろは男性と別れている。ラホールにあるマクドナルドにも女性専用の席があって、喫煙席みたいに隔離されている。イスラムの国に来たんだなぁと実感。
そしてパキスタン人のやさしさだ。インドとパキスタン、仲が悪いのは知っていたが、似たような国っぽいなぁ、と勝手に思っていたのだがぜんぜん違った。まず人がやさしい。インドで旅人に声をかけてくるヤツはだいたい下心があって、しつこいのだが、パキスタンに入ったとたん超親切心からいろいろと面倒を見てくれる人ばかり。バスに乗れば席を譲ってくれるし、ガイドを見ながら立っているだけでどこに行きたい?つれってってやるぞ、と声をかけてくる。しかも結構普通の人々で、最後は握手をしてさわやかに去ってゆく。なんていい人達何だんだぁ・・・と感動すること既に数十回。それだけではない、歩いていると、握手を求められたり、写真をとってくれーとか、俺も握手させてくれーとか、とにかく人が集まってくる。まるでアイドルにでもになったかような気分にさせてくれるのだ。
砂漠の町ジャイサルメールへ 2003.11.8
デリーでのイランビザ取得に一週間かかると言うことでデリーから南西、パキスタン国境に近い町ジャイサルメールへと小旅行。
タール砂漠の真ん中にあるジャイサルメールは、デリーから250キロ南にあるジャイプルという町からさらに西へ300キロ近くいったところにあり、パキスタンとの国境まではわずか100キロしかない。ジャイサルメールとは、12世紀にこの地方の王であったジャイサルのオアシスという意味だという。なぜこんな辺境まで行きたくなったかというと町の名前にあるようにオアシス的な雰囲気の町に行きたかったからだ。そしてガイドに載っていた一枚の写真に興味があった。砂漠の中の城だ。ジャイサルメールの町のシンボルのシタデル(城)は、いかにも中世の砂漠の城、という雰囲気。さらにそこには今でも人々が暮らしており城の中のゲストハウスに泊まることもできるらしい。うーん、イイカンジではないかぁ。
だがジャイサルメールまでの道のりはなかなか厳しい。最近になって直通列車が走るようになったおかげで、おんぼろバスにながいこと揺られる必要はなくなったのだが、それでもデリーから600キロ以上の距離がある。夜行列車で18時間だ。夕方5時過ぎにデリー近くの駅から出発するジャイサルメール行きの列車は、バラナシとデリーを結ぶようなメジャーな路線ではない。当然列車もぼろい。客もまばらだ。列車は10時間かけてまず南のラジャスターン州の州都ジャイプルへ向かう。そしてここから西へはジャイサルメールまで砂漠の中をひたすら走るのだが、とにかく砂漠の砂の舞い込み方が半端じゃない。砂漠へ入って30分もすると既に顔からバックパックから列車の中は砂だらけ。車内は砂で霧がかって見えるほどだ。この中で夜を明かし、明日の昼過ぎまで過ごさなくてはならない。これが結構つらい。マスクをしていても喉が痛い。目が痛い。さすがは砂漠の中の列車だ。気分も盛り上がりまくり。
ジャイサルメールの町はインドというよりむしろ中東イスラム的な雰囲気がする。建物は四角い岩を積み立てて作ったようなものから、マハラジャがすんでいるという豪華なハーヴェリーまで中世の面影十分である。さらに城へと続く小道は高い壁に囲まれ、石畳の坂をあがるとシタデルと呼ばれる昔風の城。その中をラクダとジープが行き来する。デリーの喧騒とは全く違うインドがここにあった。
カトマンズで・・ 2003.10.25
カトマンズにて既に2週間。様々なトラブルと居心地の良さという対照的な日々が旅立ちからちょうど半年を記念するかのように過酷さと安らぎを与えてくれました笑。だいたいカトマンズに着いた日からネパールの左翼マオイストと政府軍のドンパチで厳戒態勢。市内までの車も5回以上も検問にあい、道路は渋滞。。銃撃戦の末50人以上の死者がでたらしい。
そしてカードと旅行保険証をバスの中で掏られる・・パキスタン大使館の帰りのことで、ビザがゲットできたうれしさもあって気が抜けまくりのところをやられた。幸い被害はなし。現金も盗まれなかったのが不幸中の幸い。やっとそれから立ち直ろうとした矢先に熱40度。症状からマラリアと疑われ病院でマラリア検査まで受けるほど、寒気と熱がしんどかった。。
しかし、カトマンズ自体はとっても居心地が良い。まず、日本食が安くてうまい。。東南アジアや中国と違って現地の飯がまずい;;ので、日本食ばかり食べてしまう日々。しかも安いし。さらに日本の古本屋からCD、土産や、カフェ、パン屋・・なんとも沈没しやすい環境が整っているのがカトマンズ。なーにもしなくてもあっという間に1週間、2週間過ぎてしまうところ、なのです。
とはいえ既に10月終わり。。。日に日に寒くなってきているのを実感。そろそろインドへと向かいます。
ヒマラヤを越えてネパールへ 2003.10.10
チベットのラサからネパールへはヒマラヤを見ながらランクルをチャーター。 チベットとネパールは、中尼公路という道路で1000キロの道のり。天気がよければチョモランマを横目に5000メートル級の峠を越えていく壮大なパノラマが拝めるのだが、ここを結ぶ公共交通機関はないに等しい。多くの人がラサで同志を募ってランドクルーザーをチャーターする。ちょうどラサで宿泊していたヤクホテルでカトマンズへ向かうメンバーが6人集まったので日本人6人でランクルを2400元でチャーターして、エベレストが見れるティンリーで一泊しながらカトマンズを目指すことに。
一日目は朝6時にラサを出発。ヤクホテルで一緒だった日本人同士ということでメンバーは割と気心が知れているとは言え、トランクも含めて6人がぎゅうぎゅう詰めの状態で2日間ほとんど走りっぱなしだ。なんとかトラブルなしでネパールまで行きたい。。シガツェで昼食休憩をとり、そのままランクルは一気にティンリまで。不運にも天気は曇り。天気がよければ既にチョモランマが見えているはずなのに。。残念ながら一日目にチョモランマを拝むことはできなかった。ティンリで宿泊。明日は早朝に起きて近くの丘からチョモランマを見る。全員で明日の晴れを願って就寝。
二日目。気温は氷点下、しかし見事に快晴。ティンリの町の外れからは小さくではあるが、朝焼けにくっきりと浮かび上がるチョモランマを見ることができた。ティンリから先は道があるにはあるがランクルの性能を試すかのような悪路続き。でこぼこ道はもちろんのこと、川や土砂に切断された道なき道をランクルは進む。突然のパンクのアクシデントなどもありつつもランクルはどんどんヒマラヤへ向かっていく。目の前には常にヒマラヤ連峰、なのだ。ネパールまであと数時間の最後の峠、5050メートルのタンラでは、タルチョのが旗めくすぐ横からヒマラヤを一望。チベットに別れを告げ、ここからは一気に標高を下げながらネパールへと進む。なにせカトマンズの標高は1000メートル程度。数時間で数キロも高度を下げることになる。時間が経つにつれて空気の濃さを実感する。空気がうまい。2週間にも及ぶ空気の薄い息切れ生活ともこれでさよならだ。高山病に悩まされた僕としてはかなりうれしい;
昼過ぎ、ランクルは無事国境の町ダムに到着。ここからカトマンズまではさらにバスで7時間なのだが、せっかく6人そろっているということでまたもや国境からランクルをチャーターし、カトマンズを目指す。国境は越えてもまだ山道は当分続く。バスで7時間のところをランクルなら3時間程度で行くことができるのだ。ネパール国境では久しぶりのビザ取得、イミグレ。ついに中国を西に横断し、南アジアに入ることができた。北京時間に合わせていた時計も2時間15分遅らせネパール時間に。日本との時差も3時間以上と一気に開き急に日本との距離を感じる。ランクルは僕ら6人を乗せ快調に山を下っていく。。。のだがなぜかやたらと検問が多い。しかも銃を持った兵隊達がバリケードなどを作ってものものしい」雰囲気に。何が起こっているの??とこのときは知る由もなかったのだが、そのときネパールでは大変なことが起きていたのだ。。
チベットのラサへ 2003.10.01
雲南省からのヒッチでのチベットINをあきらめ、成都から45時間かけてゴルムドへ。そして、闇バスで、寒さと高山病と戦いながらラサを目指す。。。続き
香格里拉! 2003.9.20
雲南省を北上してついに香格里拉(シャングリラ)へ。もうほとんどチベット人の住むエリアだけど、チベット自治区まではもう少し!
標高は3300メートル。少し動くと息切れが・・ここからは5000メートル級の山々を越えていく。 9月だと言うのに朝方は5度近くまで気温が下がる日も。あとちょっとでチベット・・
ナシ族の町麗江 2003.9.15
大理から北へ3時間、世界遺産にも登録されている麗江へやってきた。麗江は独自の象形文字、トンパ文字を持つナシ族が住んでいることで有名だ。旧市街の町並みは石畳に瓦屋根の家屋が密集し、細い路地と用水路が無数に入り組んでいる。これらは800年も前の南宋時代にも遡るものらしい。夜になるとメインストリートの建物にはライトアップが施され、幻想的な雰囲気を醸し出している。
さすがに世界遺産にも登録される観光地だけあって、観光客の数も世界遺産級。旧市街の通りは竹下通りさながらのごったえし状態。しかし、細い路地をくねくねと10分も歩けば、今でも昔ながらの麗江の人々の姿を垣間見ることができる。昼間から中国将棋に興じる老人達、麗江名物フア(涼粉:黒いこんにゃく??)を作るおばさん。ナシ族の家族の経営するゲストハウスに泊まりながら、静かな麗江を楽しむ。。
恐怖の国道13号線でルアンパパンへ 2003.9.4 ラオスの国道13号線、カーシー・ルアンパパン間は、今旅行者に最も恐れられているルートの1つだ。その理由は、山賊によるバス襲撃。2003年2月に起こったバス襲撃事件では、外国人も殺されている。その後、月一回あるかないかのペースではあるが、何度も同様の事件が起きている。つい先日、8月の27日にも場所は定かではないが、同じく山賊によるバス襲撃事件が起き、治安維持部隊との銃撃戦で死傷者がでいている。山賊といっても、お金目当ての盗賊というよりは、政治的な理由が強いらしく、金品云々の前に銃撃されるらしいので、それはそれは恐ろしい。現在では、カーシー・ルアンパパン間はバスへの兵士の同乗、ルート間の監視などがあるみたいだが、それでも、山賊は100人以上の群れで襲ってくるらしいので襲われたらただではすまないだろう。
ビエンチャンからルアンンパパンへ向かうには、この悪名高い国道13号線をもろに通らざるを得ない。以前ならボートでメコン川を北上してフェイサイ経由でルアンパパンに行けたのだが、現在このルートは運宮中。もちろんラオスに鉄道なんてものはないから、バスで山道を越えるしかない。命にかかわることとあっては、金には代えられない。とにかく、もっとも安くて遅い、そしてよく狙われるローカルの各駅バスは避け、VIPエクスプレスバスでルアンパパンへ向かう。これなら、山道でも速いし、車体も頑丈だ。あとは運次第。
バスは、出発後3時間ほどでヴァンヴィエンを抜ける。ここを過ぎるとあとは、ずっと標高高い山道だ。景色がいい。カンボジアの平野もよかったけど、このいかにもラオスらしい山岳風景もなかなか絶景。途中には、結構たくさんの、しかし、本当に小さい集落なんかもあって、ラオスに住む山の民の生活を垣間見ることができる。藁と木だけでできた家、山から湧き出る小さな滝で水浴びをする子供たち、薪を籠いっぱいにいれて山を登るおばちゃん・・こんなところで、どうやったらバス襲撃が起こりえるのか?どうみても平和な山村の生活にしかみえない。などと思っているとだんだん軍服を着てライフル銃を持った兵士の数が一人、また一人と増えてくる・・・
タイの遺跡の写真を更新 2003.9.2 タイの遺跡の写真を更新し始めました。とりあえずアユタヤ遺跡から。写真 タイの遺跡を見ていて誰もが気づくのがその仏塔(チェディ、ストゥーパ)の多さだろう。クリスマスのジングルベルをさかさまにしたような形状の建物である。バンコクのワットプラケオにも同じような形の仏塔があるが、黄金に輝いている。これらも当時はすべて黄金でできていたのだろうか。。だとしたらとても豪華絢爛の様であったろう。この仏塔、何もタイだけのものではなく、もともとは、インドで発生した仏教建築物で、日本にも形を代えて輸入されている。(五重の塔なども一種の仏塔。日本にも石の仏塔もあるらしいが、とても小規模らしい)本来の目的は、仏陀の死後の遺骨(仏舎利)を安置するためのものであるが、通常は仏舎利に見立てた宝物などをおさめたりする。実際、アユタヤ遺跡の仏塔の中や地下からは多くの宝物が発見されて博物館に展示されている。大半はビルマ軍に盗掘されてしまったのであろうが、それでもまだ出てくるくらいだからその量はとてつもないものだったのだろう。もともとインドでストゥーパといっていたものを中国語に直したとき、卒塔婆と約され、それが塔という字になったらしい。 そういう意味では、日本語のテレビ塔などの塔という言葉も、もともとはサンスクリット語のストゥーパなのだ。感慨深い。
アユタヤの遺跡が破壊されつくされている理由は基本的にはビルマ軍に侵攻された際に破壊されてしまったからなのだが、もうひとつの理由はアユタヤ時代の建物の多くが木造だったかららしい。(地球の歩き方に書いてあったことなのでなんだかにわかには信じがたい。)それゆえ、アユタヤより古い遺跡であるスコータイはレンガやラテライトがメインだったので現在まで残っているものが多いのだという。確か、クメールのアンコール朝やチャンパ王国では、もともと木造であったものを途中からレンガや石製になっていると聞いている。何故、それより後の時代にできて、より進んだ文明をもっていたアユタヤ朝で建築物が木造になったのかはわからない。(アユタヤの日記より)
今までの旅のルート
大同の雲崗石窟と兵馬傭
大同は北京の西に位置する小さな街なのだが、世界遺産にも指定された石窟、雲崗石窟が有名で多くの観光客を集めている。石窟は東西1Kmに渡って無数にあり、西暦450年から500年にかけて開削された。敦煌石窟などと並んで中国4大石窟のひとつである。
兵馬傭は、秦始皇帝の陵墓に納めるために作られた6000体にも及ぶ兵士や馬の像である。1974年、西安郊外で偶然農民によって発見されたのだが、秦時代の歴史を紐解く重要な実物資料となっており、今尚復元作業・研究が進められている。写真