無事日本へ帰国。更新できずにいた内容をそのうち全面的にUPする予定。
無事にロサンゼルスより東京へ帰国。約一年ぶりに日本へ。一年ぶりの日本は・・・飯がうまい!!以外にはあんまり変わっていないので、安心したようなちょっとがっかりしたような。それにしても日本へ帰国して数日。もうすでに旅行していたのはずいぶん過去へと感じられる。写真の現像、日記の整理なんかをしてから大量に更新する予定。
Mexico メキシコシティで闘牛観戦
ついにメキシコの首都メキシコシティまでやってきた。さすが人口2000万人の大都市、とにかく大きく、人が多い。そして中米と比べるとメキシコに入った途端に先進国の匂いを感じる。以前アメリカからメキシコに入った時にはメキシコはなんて貧しいんだと感じたことがあったが、同じくにでも中米側から入ると全く印象が逆になるのが面白い。
メキシコシティでは、スペインでは季節外れのため見れなかった闘牛を見る。ここメキシコではシーズンが冬なので2月までは闘牛を見ることが出来るのだ。同じペンションアミーゴという宿に泊まっている日本人4人で地下鉄に乗って闘牛を見に行く。闘牛の開場は外見は小さな野球場みたいでセビーリャで見た闘牛場とはぜんぜん違い近代的。僕らは一番安い40ペソ(400円くらい)の席のチケットを買ったのでかなり地面から遠く最上階の方の席。それでも初めての闘牛にみんなでかなり興奮して試合?の始まるのを待つ。
闘牛は夕方4時から日も傾きかけた頃に始まる。一回の試合では4,5頭の牛が出るらしい。生の楽曲隊の演奏にあわせて闘牛士や馬に乗って槍を持っている人などが行進し始める。いよいよ始まるのだ。まずは、円形のグラウンド内に勢いよく闘牛が放される。牛は前足をかきながら場内をぐるぐる駆け回り、それをピンクのマントを持った補佐の闘牛士が挑発する。そのうちに、馬に乗り長い槍を持った騎士が出てきて、牛を一刺し。弱まるところを知らない闘牛に、さらに別の闘牛士がナイフのようなものを5,6本刺す。もうすでに牛は血だらけだ。そしてそこからメインの闘牛士の登場。真っ赤なマントで牛を挑発し、やり過ごす。闘牛士がマントをうまく翻したときには、場内のお客さんが一斉にオーレ!と声を上げる。時間が経つにつれてお客さんから口笛や野次が飛び始める。殺せ殺せと言っているみたいだ。そして闘牛士が長めの剣で牛の背中から頭にかけての部分を刺す。うまい闘牛士はこれが一発で決まる。刺さったと思ったら牛が倒れるのだが、下手な闘牛士の場合、なんど刺しても牛は倒れない。そして、何人もの人が出てきて、寄ってたかって牛を串刺しにしていた。これは見ていてちょっと牛がかわいそうになる。倒れた牛は馬に引かれてグラウンドを後にする。闘牛士がうまく牛を刺し殺した場合には、お客さんみんなが白い布をぐるぐると回してブラボーの声援を送る。これが4回5回と繰り返される。
最初は僕らも興奮してみていたのだが、だんだん牛がかわいそうになってきて、終わりの方では、みんなでまだ続くのかなぁ、と少しお腹一杯気味になっていた。次々に出てきては刺される牛がかわいそうになってくるのだ。それでも最後のトリは有名な闘牛士だったらしく、華麗なマントさばきで闘牛をしめてくれた。今度はスペインで本場の闘牛をみることができるだろうか。
マヤ文明 ホンジュラス コパン遺跡
中米ホンジュラスからメキシコ南部にかけての地はかつてマヤ文明の栄えた地。多くのマヤ文明の遺跡が残っている。ヨーロッパに入って以来遺跡を見ることはあまりなったので久しぶりに古代文明の遺跡めぐりが新鮮。
マヤ文明の遺跡と言えばグアテマラのティカル遺跡に代表されるように数十メートルもの高さのあるピラミッドが有名。エジプトのピラミッドとなんらかの関係があるのではなどというガイドブックの説明がなんとも神秘的なのだ。しかし、ホンジュラスのコパン遺跡の方はピラミッドと言うより、どちらかというと、その彫刻の方が有名。ピラミッド型の神殿の周りを取り囲むように立てられた縦長の、トーテムポールを短くしたような石碑に刻まれた各々の統治者の彫刻がとても美しい。
そして、考古学者たちによって徐々に解明されつつあると言うマヤ文字がびっしりと刻み込まれた階段は圧巻。2200文字以上のマヤ文字が刻まれていると言うこの神殿の階段はアメリカ大陸に発見される古代文字の中で最も長いものだと言う。このマヤの象形文字がなんとも神秘的で、真横から平面的に描いた人間の形がエジプト文明を連想させるし、石でできた立体的な彫刻技術は、アンコールなどのアジア文明をも連想させる。遠く昔に長い時間をかけてアフリカ、アジアから渡ってきたことを物語っているようでならない。
古代文明というと今まではエジプト、黄河、インダス、メソポタミヤの4大文明というのが今までの通説で、僕らも学校ではそう教わったのだが、最近では、南北アメリカ大陸の文明もそれに数えることが多くなっているのだと言う。たしかに、4大文明と比べてアメリカ大陸の古代文明に対する知識はあまりにも乏しかった。僕自身、マヤ文明の名前以外、ほとんど何も知らないでいた。生贄の習慣があったと言われ、天文学が高度に発達し、スペイン人が侵略に訪れる前に謎の衰退をたどるマヤ文明。ここからはグアテマラのティカル遺跡、メキシコのパレンケ遺跡とマヤ文明を知る旅になる。
西ヨーロッパの日記を更新
雲南とチベットの写真
中米の旅が始まる
NY経由でのフライトで中米パナマへ。パナマからは陸路北上してメキシコ経由でロスへ。旅も終盤になって、中米の治安の悪い都市を通らなくてはならないのは憂鬱・・と思っていたらいきなりトラブル続出。。無事ロスまでつけるのか。
地の果て、海の始まるところ ロカ岬
スペインの首都マドリードからユーラシア大陸最後の国ポルトガルへ。ポルトガルで行きたいところといえばここしかない。ロカ岬。ユーラシア大陸の最も西に位置する場所だ。
マドリードからリスボンへの夜行バスを降り、宿を見つけてその足でロカ岬へと向う。リスボンからは、列車でシントラという街まで1時間、さらにその小さな町、シントラからローカルバスで1時間。有名な観光地の割りにロカ岬までの交通手段はほんとう長閑な2時間に一本しかないローカルバスのみ。バスは、地元の中高生を乗せたり降ろしたりしながら海が見えては消える山道を走る。そして1月16日、東京をでて9ヶ月。ついに西に向ってきたユーラシアの終着点へ。大西洋までやってきたのだ!
ロカ岬についた時の感動は、旅行記や小説に出てくるような派手なものではない。淡々としている。むしろ、ユーラシアの西の果てについたことより、今までの旅路が一気に思い出された。執拗に陸路にこだわって、これまで一度も飛ばずにここまでやってきたわけだが、あと出発が少し早かったら中国のSARSの影響で飛行機を使わざるを得なかったし、後数ヶ月遅かったらイランのバム地震で陸路はあきらめざるを得なかった。フランスでは、飛行機の3倍もの値段のする列車に乗った。そんなことが次々と思い起こされる。
ロカ岬には、灯台と小さな石碑、ツーリストインフォメーション以外に何もない。観光客も少なく、それがまた静かに大陸の果てを見渡すのが情緒があっていい。石碑には、ポルトガルの詩人カモンエスが読んだ詩の一節、”地の果て、海の始まるところ”という一文が刻まれている。
ツーリストインフォメーションでは、このユーラシア大陸の西の果てにたどり着いたことを証明する名前入りの証明書なるものを発行してくれる。いかにも観光名所的なものはこれくらいだろうか。今まで、こういったものには全く手を出さずにここまで来たのだが、ここは1つ記念にと、5ユーロの証明書−10ユーロの豪華版もある−を購入。16万なにがしか人目だそうだ(もちろん訪れた人がではなく、証明書を買った人がだけど)。感動に浸る間もなく、こんなものを買ってしまったことを後悔・・・ただの紙切れじゃん・・っていうか、サイズがでかい。B4よりでかいサイズ。こんなもの持って帰れない。
ポルトガルでは、ロカ岬にさえ行けば目標達成なので、カステラとエッグタルトを食べてスペインに逆戻り。セビーリヤでフラメンコを見て、いよいよアメリカ大陸へ。
バレンシアの休日
バルセロナから地中海沿いに南西へ向かう。そこはスペイン第3の都市バレンシア。バレンシアと言って思い出さない人がいないくらいここのオレンジは有名。そしてスペインの代表料理パエーリャ発祥の地だ。バルセロナからの列車は左手にずっと海を見ながら約3時間でバレンシアに着く。スペインは広大な大きさと思っていたので都市間の移動はもっと時間がかかるかと思いきや意外にすぐ着いてしまう。
ここバレンシアまで南に下ってくるともうそこは“冬”ではない。昼間の気温は20度以上まで上がりTシャツ一枚でもいけないことはない。日向は暑いくらいだ。それでもカラッとした気候のため外を歩いていると本当に気持ちがいい。トルコから一緒に旅をしているダウンジャケットは既に無用の長物と化している。バレンシアの良いところ、それは観光地化されすぎていないところ、だろう。バルセロナなどと違ってそんなに観光客が押し寄せてこないためいかにも日常的スペインがみられることだ。観光は街の中心を歩いて回れる程度ですぐ終わってしまうのだが、スペインの週末の風景をみるには一番いい。広い歩道を埋め尽くすカフェのイスやテーブルには、朝からグラスビールを飲む家族連れから年寄りカップルまで多くの人が休日をエンジョイ中。カフェで一日本を読みふけっているだけでこの街に溶け込んでいる気がしてくる。
そして、平日のシエスタもまたいい。午後2時を過ぎると青空の下真昼間からだーれも人影を見かけなくなる。普段おしゃべり好きのスペイン人であふれる通りはシーンと静まり返り物音1つしない。昼寝でもしているのだろうか。。マドリッドなどの大都市だと、日本人を狙った強盗がこのシエスタの時間帯に活動し始めるのでなかなかリラックスできないらしいが、ここバレンシアは平和そのもの。シエスタの中緑あふれる公園で昼寝中のおじいちゃんを見ながら、市場で仕入れたオレンジを片手にぼーっと空を見て過ごす。なんだかずるずるとこの場所にいてしまいそうだ。。
オラ!FROM バルセロナ
物価の高いフランスを早々と抜けてスペインへ。ここバルセロナで中学校で習った地中海性気候ってヤツを実感中。まず暖かい!!もう東ヨーロッパから続く氷点下季節は終わり。昼間はフリース一枚で汗ばむくらい。そして、日が長い!パリでは朝9時過ぎまで暗くて3時過ぎるともう日が沈んでたけど、さすが地中海沿岸。それに天気がよい。雲ひとつない青い空が毎日続くのだ。
そりゃ、東ヨーロッパやドイツなどと比べるとスペイン人が明るく陽気なのもうなづける。昼間からワインやビール片手に日向ぼっこするのが許されるちゃったりする。メディタレイニアンはすぐ目の前、シーフードがうまい。旧市街の細く入り組んだ路地といい、人々の声のでかさといい、なんだかアジアに戻ってきた気がしてしまうのは僕だけではないだろう。
バルセロナではやっぱりあれ、サグラダファミリア。これを見ながら、ラララー♪とネスカフェの歌を口ずさみながらコーヒーをすすり、”違い”を感じる。なんてったって、まだ完成まで200年。嘘だ、絶対嘘だ。何がどうなったって、200年もかかるわけない。でも、平日にサグラダファミリアに行くとちゃんと工事をしていた。ちょっとずつ工事が進んでいるようだ。普通の観光地は一度訪れるとそれで2回目はあんまり来る気がしなくなるけど、サグラダファミリアには、次回着たときまでにどのくらい工事が進んでいるのかが楽しみの一つになるかもしれない。ま、なにせスペイン人のことだからものすごくゆっくりとしたペースなのだろうけど。
そしてユーラシア大陸の西の果て、ポルトガルのロカ岬はすぐそこ。ついにユーラシア大陸の最終章へ。
サラエヴォの見えない境界線
トルコからブルガリア、セルビア・モンテネグロを経て東欧で一番行きたかったボスニアヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォへ。以前NHKのドキュメタリーを見て以来ずっと興味があった街だ。ボスニア紛争の停戦以来武力衝突はなくなり、メディアにはでなくなって久しいサラエヴォ。以前テレビで見た光景とは違い破壊されたビルの多くが修復され、人々の普通の生活を見ることができる。それでも、街中にひときわ大きく聳え立つ破壊されたままの旧共和国議会ビルや、弾痕の残るアパートなどからその内戦がさほど昔ではなかったことを物語っている。
ユーゴからの独立を果たした今もここボスニアヘルツェゴヴィナは、一種の国連信託統治の国。街のいたるところにSFORと書かれた国連軍の兵士達のパトロール姿を目にする。そして、同じスラブ民族でありながら信仰の異なるクロアチア人、ムスリム人、セルビア人の住むボスニアは、一国の中に見えない境界線が存在し、クロアチア人・ムスリム人の住む連邦側とセルビア人の住むセルビア人共和国側に分かれていることは、実はあまり知られていない。セルビアのベオグラードから着くバスは、この境界線の手前、つまりセルビア人側のバスターミナルに着き、クロアチア方面へのバスは連邦側のバスターミナルに発着する。ここサラエヴォには依然として民族の違いによる境界線がしっかりと残っているのだ。
セルビア人側バスターミナルを降り、吹雪の中、街の中心のある連邦側まで歩いて境界を越える。境界と言っても地図上には点線で示されて入るものの実際には何も印などがあるわけではないので、一体どの辺で連邦側に入ったのかはわからない。ただ、それまでのキリル文字がローマ字に変わったことくらいだろうか。
実際にサラエヴォに滞在してみて驚いたこと。当たり前のことなのだが、ここサラエヴォではムスリム人がマジョリティ。つまりイスラムの地なのだ。トルコ以来ブルガリア、セルビアとキリスト教の国だったのでここサラエヴォで一日5回大きな音でコーランが流されることが最も新鮮な驚きだった。頭ではわかっていても、実際にコーランの流れるサラエヴォというのはなんだか不思議でしょうがなかった。ここは東欧の真ん中なのだ。
街の中心にあるホリデイインは、戦争時世界中のジャーナリストが命がけで取材のために宿泊していたホテル。ここから西へ数キロはスナイパー通りと呼ばれ、動くものはすべて周囲の高層アパートからスナイパーの狙撃対象になったのだという。通りを歩くと今は、日本のODAで寄付された最新型のバスやトラムに帰宅するサラリーマン達が沢山、午後3時だと言うのにラッシュアワーになっている。ボスニアの人たちは、4時までには帰宅して家族でお昼を食べ、その後は家で過ごすと聞いたことがある。なるほど、ラッシュアワーが見れるということは平和だということなんだなぁ、と妙に感慨に浸ってしまった。スナイパー通りを5キロほど西へ歩くと、戦時中も一日も発行をとめなかったというオスロボジェーネ新聞社の社屋が見えてくる。当時建物はボロボロになるまで破壊され、記者たちは地下で日々新聞を発行し続けたのだという。この建物も今は全面ガラス張りの新しい建物に生まれ変わりつつある途中。今もイラクでは同じように日々命がけで暮らしている人々がいるのだろう。この日、イラクでサダムフセインが拘束されたことを知った。歴史は今も動いているんだなぁ。